これも過去Twitterで書いてたやつのまとめです
考えていた事をまとめよう と思い メモを見返し 「これは何様でしょう」となっているから私は冷静
新しいパッケージにいれないと 中身を取り出して
パッケージの柄とリボンの色で、中身は寸分変わっていないはずなのに、違って見えるのさ。それが言葉 言葉ってパッケージ
孤独とは、なんなのだろうか
孤独とは その場で 同類を持たぬこと 繋がりを持っていない、ある状態を指す
と思っている よって友人を多く持つ人も同時に孤独になりうるし 孤独な人が最も内的に満たされている事がある。
孤独 という言葉は その言葉自体が何かを意味するに当たってあいまいだ
孤独は「疎外」「孤立」「隔離」これらの全てを内包するからである
また、孤独、という言葉は、曖昧ゆえに独自に定義が可能な、自由性の高い言葉とも思う。この言葉にもまた、ヲリーの定義があるように、無数の定義がある
またあいまいさゆえに、孤独、という言葉は、いくつかの別々に違った言葉の組み合わせの一部になることでその内に内包するいくつかの概念の内、より近い意味に沿う なので、よりシンプルで真理めいた結論を付ける時、さまざまな意味を内包し曖昧ともとれる「孤独」や「幸せ」なる言葉が適する時もある
哲学者、三木清は、「孤独は山にはなく、むしろ町にある」といった趣旨の事を言っている(らしい)
ここでの「孤独」は、「状態」ではなく「感情」としての孤独である。
「孤独感」といったものだ。しばしば人はこの「孤独感」と「孤独」を混合する。
「孤独」であれ、「孤独感」を持たぬ者は沢山いる。彼らは真の意味で孤独ではないのかもしれない。しかし、逆に位置して「孤独感」を持つものは、様々な人の波の一部であろうが、家族に真心を持たれ心からの無制限の愛を与えられようが、人に感謝をされようが 彼らは始終「孤独」に終わる
孤独感を伴わぬ孤独は、人を賢者にする。雑音や外的要素が遮断された時、人は「自己」が浮き彫りにされる。浮き彫りにされた自己は、雑音・外的要素なる"誤魔化し"の無い純粋なる核である
人は孤独を与えられた時、誤魔化しの利かぬその場で、「逃避」が不可能になる。狂いでもしない限り
話が逸れるけど、一切の「音」が存在しない部屋に人を閉じ込めると、人は狂うのだってね。あまりにも音がないせいで、自分の心臓の音や内臓の音がとてもクリアに聞こえるようになり、それがあまりにも生々しく気が狂いそうになるので、気を逸らす為に脳が幻聴を作り出すらしいよ
他人(ひと)は、自分の合わせ鏡だ
自分の中に無い物を、他人の中に見ることはない。不可能なのだ。
よって、自分をよく知る者は、他人をよく知る者にもなる。
逆もあるということだ。自分を知らぬ者は、他人を知る事が、できない。
最大の 、孤独、とは何か
自分の中に永続的に「孤独感」を、持ち続ける事では無いか。
他人と会い、話しても、「分かり合った」気に、ならない。相手からどんな話をされても「分からない」自分から何か話そうにも自分の事を知らぬから何を話せばいいか「分からない」
「共有」が成り立たない
他人を知りたければ自分を知ればいい。否、言い方をもっと適切にすれば、自分を知らなければ他人を知る事など不可能だ。人は、他人と交流する事により、自分の中のもう一人の自分と交流する。交流するということは、自分の中のもう一人の自分を発見することだ。周囲にいる人間が全員、「自分」なんだ
少し話が逸れた。
自分を知る為には、そうした他人との交流を通しての、自分の姿を合わせ鏡として他人の中に見る方法が一つ
もう一つがツールとしての「言葉」を駆使しての模索、観察、そして定義
かな と思っている
少し話が逸れた。
自分を知る為には、そうした他人との交流を通しての、自分の姿を合わせ鏡として他人の中に見る方法が一つ
もう一つがツールとしての「言葉」を駆使しての模索、観察、そして定義
かな と思っている
人にはいつだって「未知の物」が存在する。未知の物とは自分に驚脅となるか得となるか、わからないモノの事をいう。
人は、常に未知の物に囲まれてる故に、どうしてもそれらと対面して観察・調査・確認する過程を踏む事を強いられぬ限り、それらを避けて通るように「本能」にプログラムされている
それらに一々反応している様では生活が営めないからだ。そして、それら「未知」で「不明」な物は、驚脅か得かわからぬモノなのなら、避けて通るが吉なのだ。生物は、得る為のリスクが既に所持するモノの損失になる可能性があると、基本的に得ようとする事も避ける傾向にある
だから未知の物を避けて生活を営む事は、「悪」であるどころか「自然」な事なのだ。それが生活に干渉しない物で、自分の生に影響を与えない物であるのなら未知の物は基本的に避けるべきかもしれない(それらに無意識に我々が影響を及ぼしているのならきちんと認知するべきと思うがそれは私の信念の話)
しかし、一つ、我々がそうやって避けて通れない「未知の物」がある。
己自身である。
どんなに避け 逃げ 攻撃し 遠ざけようとしようとも、自己は絶対に己の前からいなくなることは無い
しかし、一つ、我々がそうやって避けて通れない「未知の物」がある。
己自身である。
どんなに避け 逃げ 攻撃し 遠ざけようとしようとも、自己は絶対に己の前からいなくなることは無い
未知の物への対処法は二つしかない(基本的に何事も選択肢は2つにいつだって絞られる法則に準じている)。
「避ける(逃げる)」または「知る」ことである。
未知の物への対処法は二つしかない(基本的に何事も選択肢は2つにいつだって絞られる法則に準じている)。
「避ける(逃げる)」または「知る」ことである。
知る、ということは、未知の物の正体を知る事である。
正体を知らなければ、対処する事は不可能だ。
対処するには、まず、知らなければならない(正体、そしてそれ自身を)。
教育者は、「知る」術を知らない子供に「知り方」を教える義務がある。「知り方」を教える者こそ、真の教育者だ。
知識を詰め込む事は「知る」事ではない。「理解」の伴わない「知」は二束三文の御託にしかならない。「理解」に辿りつく為の「知」のアプローチを教えるのが「知り方」を教える事だ
社会生活を営む為には、人と関わらなきゃならない。人と関わる為には人をある程度理解しないといけない。理解ありきの対処だから。
でも自分の事が理解できていない人は、他人も絶対に理解できない。だから関わり方がわからなくなる。そして「理解できない物」がやがて「恐怖」になり「驚脅」になる
未知の物とは対処法がわからない物の事だ。正体がわからない物。
正体がわからないと人はそれがどういう物であるかを「想像で補う」。
こうかもしれない、ああかもしれない、こういうものに違いない。想像だけは募るが一向に正体が見えない、むしろ見えにくくなる。もっと接し方がわからなくなる
接し方・対処法がわからないと、それが「驚脅」になる。それを避け、退ける為に逃げ、やみくもに攻撃するようになる。
これが「恐怖」のメカニズムだ。つまり 恐怖とは、「未知の物に抱く幻想」だ、それに他ならない
知り、理解し 正体を浮き彫りにし、対処・接し方を考えれば「恐怖」は消える
んでもずっと逃げ続ける人は、この恐怖がどんどん膨れ上がる。「ああかもしれない」「こうかもしれない」に「こうにちがいない」「ああにちがいない」が付け足されていくから想像…妄想がどんどん大きくなって、どんどん正体が見えなくなってく。そしてその妄想のせいで、対象がもっと恐ろしい物になる
結果、後で向き合わなければならなくなった時に更にデカいモンスターとなって帰ってくるか、ずっと逃げ続けるか、だ。そこで逃げ続ける人はやがて正当化し始める。あんまり耐えられないから、自我を守る為に幻想を作り出し始める。無音に耐え切れなくなると幻聴を作り出し始める脳みたいに
自己正当化の為に世界の認識を曲げるし、周囲の人間をそれに合わせようとする
責任転嫁したり悪口を言ったりする様になり
もっと自分のことわからなくなるから他人の事ももっとわからないし自分に嘘ついてるから他人にも嘘つく 自分を真っ直ぐありのまま見れないから他人も等身大で見られないな
だからなんか劣等感が強くて自己嫌悪ひどい人とかって敬遠しちゃうんだよな
それを「それでもいい」って結論付けてるか「どうにかしなければ」って問題意識あるんだったらいいんだが
「俺くずだから~鬱」て人は自己正当化の為に他人を使いそうで。自分の穴を他人に埋めてもらおうとするというか
自分から逃げながら、同時に欲張りながらも自分を正当化したいって思ってる他人にそうしてもらいたがるっていうかなー…うまくいえん
問題は自分でどうにかするか他人にどうにかしてもらうかしかないからね。でも自分と向き合うって事に限っては他人にやってもらえないんだから他人を使うのは逃げだ
他人を自己正当化の為に使うっていうのは、自己というアイデンティティを形成するために他人を使うって事だ
だから他人が自分の思い通りにならないと傷つく。アイデンティティが崩れるから。結果駄々をこねて他人をコントロールしようとするし無理だったらその人を自分の世界から排する。正当化する
それが一般的に言う境界性人格障害ってやつか。そうやって自分が理想的な自分で無いから自分のこと受け入れられなくて、その事実から目を逸らす為に、「理想的な自分」演出するために他人を小道具として使おうとする。理想的な自分から外れたり、外れた事されると動揺し傷つく。これは自己愛性人格障害
どれも自分の内面の考察・言語化が足りてないから起こるんだよなあ
分からないと想像で補うしか無いし、未知の物への対応がわからなくて「そういうものだ」って歪めて型にはめるのが唯一自分の知る対応法になり、もっと認識が実物より歪む事になる
自分のことを知るには言語化するしかない 自分というあいまいなもんを一番適切に正しく形容する言葉を探して、「こうかも」「ああかも」って模索する以外無い その為に本がある、自分が使う言葉を得る為に
本など、外部情報をどうやって処理するかを教えるのが親など教育者の役割と思っているが…
言葉というのはあいまいな物を物質化する為のツール、手段でしかない
言葉にすることで物質化する 物質化して初めてそれは対処可能対象になる、と 思う むしろ物質化させんと対処はできん 物質化させたらなんだって対処可能だ
何が言いたかったかというと……!!!だなア!!!
人はいつも選択しながら生きております。人生の岐路という大きな選択ばかりじゃあありません、コーヒーの飲み方や、むしろコーヒーを飲むか否か、というのも立派な選択です。
選択はいくつもあるように見えるものですが よくよく考え見つめなせば大体の事が二つの選択肢にまとめられるもんです。
コーヒー飲むか飲まないか。牛乳いれるかいれないか。仕事にいくかいかないか。つきつめた極端な選択肢は「生き続けるかここで死ぬか」になると思います
生産性の無い絶望的な人生観を持ってる人はだったら死ぬのでしょうか 死にたくないなら生き続けるんだと思うが、そういう人生観で現実的に対処法考えながら生きられるんかって言ったら多分無理だから、じゃあ他人にやってもらうしかなくなって、変に他人に依存しすぎながら生きる事になるわけで
他人に依存しすぎる人は他人を道具としてしか使えなくなる訳で
つまり過干渉になったり害になったりし始める。重くなる。他人にアイデンティティを形成するにあたって依存してるから相手の一挙動で一喜一憂する、過剰反応する 平穏は永遠に訪れん 心の中は常日頃地獄絵図のままになる
ここまで色々考えているっていうのはつまり私もそれができなかった人なんです
今も出来とらんかもしれません こうやって常日頃考えて言語化に励んでいるのは自分が一番わかっとらんからです。
わかってたなら言語化しようと頑張る必要は無いからな…わからないから言語化してわかろうとしている
気づかなければ、認知されてなければ、そこにあるものも無いのと同然です
もともと出来る人はそれが自然にずっとできるから認知しません。認知しないから考えることもありません。つまり言語化になかなか至りません。だから最初からなんでか絵上手い天才の話は観察・考察対象になれど参考にはならん
だからなんだか偉そうに知ったようにずらずら長く語っているけれど私がわかってるかっていったらわかってないんです、一番わかっとらんのです。わかっとらんから長々と垂れ流して考えながらうんうん唸っているという訳で……
だから私自身今の話しの中で例に出した人達とさして変わらないんである。
臆病だから知ろうとするのである 不快感を感じながら生き続けたり、人の挙動で一喜一憂するのが面倒だからそうなりたくないのである。一喜一憂され過剰反応されるのもとっても面倒臭いからそういう人を避けるのである 全ては自分が心地よく過ごす為でしかないな、うん自分勝手で自己満足な人間である
でも自分の事幸せに出来るの自分だけだしなんかみんなそんな感じでいいのとちゃうのかなって思ってるんだが 勿論私に合う生き方が皆に合うものとは思わないから人それぞれでいいんだけども
皆各々で自分の信念や価値感に従い自分也に気持ちよく幸せに生きればイイのとちゃうのんかなア
自分一人で快適で満足だが、他人と共有できたりいろいろやったら、もともと満足なのにプラスアルファになってもっと楽しいな!ってなる位が丁度よい対人関係の捉え方でねえかな…とか
あの人にこうされないと幸せじゃないってすると他人コントロールしなきゃになって大方できないから不幸なままで
そんで自分楽しくない!!みんな楽しくない!!誰も得しない!!!オーマイ!!!だから取りあえずみんな自分がまず楽しくなろうぜ!!そんでみんなで楽しいの共有してもっと楽しくなっちゃおうぜ!!!!と一人遊び好きが申しております アッハイ
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