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2024/11/27 04:37 |
test
こんにちは、ヲリーと名乗っているものです。
私の絵に興味を示してくださり、ありがとうございます。
ここは私の戯言が投げられるだけの単なる虚空でございます。
特に誰に向かって言っているわけでもない、記録の場となれば。
取るに足らない話題しかありませんが、宜しければどうぞ。
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2022/12/31 23:59 | none
自己解釈
これも過去Twitterで書いてたやつのまとめです
しつこいって?どうぞ回れ右いたしてくださ…

一見考えているかのように見えるが実況しているだけの種類の人
はコメントも印象と感覚でおこなっていて一見筋がとおっているけれど矛盾しまくりな意見しか言っていない
から苦手です
実況っていうのは
「こういう意見の人もいるしこういう意見の人もいるよなー大変だよなー。」のあとに「まあ一般人にはどうにもできないしなー」でしめる感じ
口癖は「人それぞれだなー」「一概には言えないなー」「まあしょうがないよねー」
孤独になろうとしたくなるのは誰かとつながった状態だからだから、「最初からみんな孤独」って感覚だと「孤独になりたい」って感覚ぎゃくにわからんかったりな
多分幼少から3年ごとぐらいに引っ越し族してたのも大きいけど人との繋がりとかそこまで意識したことないかもな 人間最初から孤独だから気にしないでも一緒になれるとこだけで一緒になればいい
だから、仲のよくなる人とかも勝手に仲良くなるから、続くなら勝手に続くし、切れるなら勝手に切れるし
意識しなくても問答無用で時は流れて物事は起こる
からな
実は大体最後に選択する者は自分の自我じゃなかったりする と思っていた14の夏だな
私が私自身の思考をすべて文章化して最後まで泥沼化するレベルまで考えまくってしまうのは、
どこかで考えを放置するとその考えに自分が支配されてる気になるからだ
私は私を一番知る者になることで私を一番支配・征服している者になりたいんだと思う
「知る」ということは「支配」している事になると思う
私自身の事を他者が私より理解していたら、必然的にその他者が私自身に対してより大きな力を持つ
のが嫌だから、不快な感情がひとつでもあるとその正体を一番最初に突き止めたくてとにかく考えて考えまくる
最初から「人は理解が不可能だから最初から孤独なんだ」と思っている
それが私の中では「前提」レベルの常識だから、わざわざ孤独になった方がいいとか、孤独になろうという気が起こらない
「孤独になりたい」という人は他者と深く繋がりが持てる暖かい心の持ち主だと思っている 私には無いから
逆に、環境や生まれや人間関係にアイデンティティを見出すの不可能な、育ちのお陰で超個人主義人間に育っているから
そういう真逆の生き方できる人に羨望や憧れの気持ちがある だからそういうキャラクターばかり描く な 私 うん・・・。
だから、といってはなんだけど
特定の人がとても一緒に居て楽で楽しくて気に入ったりすると、その人たちと特に仲良くしたいと思う
そうできる時は限られているかもしれないから
だから卑屈になったりしないで素直に彼らと遊んだり考えたり時を過ごしたいと思ったりする訳でな。
最初から孤独と思ってるから私はコミュニケーションに逆に熱心になってるのかもわからない 永遠で安泰のものは何一つ無いと思ってるからその時あるものを大事にしたいと思う
誰とも完全にわかりあえることはないし、完璧な理解はないし、人間は皆生まれてから死ぬまで孤独だから、コミュニケーションや人の繋がりに精が出る という価値観
最初からわかりあえたらコミュニケーションなんて必要無いもの
孤独になりたくなったりする人は色々本気で考えて傷つきやすい人、繋がりやすい人なんではないだろうか
最初から全員孤独で平等に意味があって同時に無い って感覚だと傷つきよう無いからな 私みたいに
しかし私もかなり動揺したり傷ついたりする事もたくさんある それはどれも私のアイデンティティを揺らがす事だったからだな・・・例えば「礼儀がなってないけど自覚してない人」とかになるのはとても怖いからそうなってるかもしれないと思うと超絶パニクッてしまうように
それは私自身が自分を一番支配していたいから、自分の理解外の事を自分自身が行ってるかもしれない事に言いようもない恐怖を感じるからでな
「嫌われる事一切言ってねえのに嫌うあいつが悪い!」なんて事になったらクソだからどうせなら「自分らしくいて自分自身が嫌われたからそれもまた仕方ない」って思えたほうがいいぞ なんでも自己責任と思えたら何か自由意思を感じ続ける事ができる 主体性みたいなな
自分という存在は無価値で最初から何も意味は無いから何か行動する事で意味を持つしかねえんだよ…
自分自身に意味は無いから行動にしか意味は生まれぬ
行動に意味を持たせたいから考え続けて自分の行動に意識的に、責任を取れる物であって欲しいっていう、自分を支配していたい欲求の延長かもな
だめだやっぱりしにてえ 何か行動をしつづけて自分の存在を肯定していないといまにしんでしまうな
意味があると思わせてくれ!むおお
むおおなんてやつ 「被害者」にも「善人」にもなりたくないのに「意味ある存在」になりたいとはおこがましい!理想論者!私の名だーーーー
このタイミングで楽天乳首ピアスこれでもかとおすすめしてくるなよ「エロあげるから生きなさい」って言われてるみたいで我が低俗な魂生きる義務感だよお
些細な点と点を繋げて勝手に色々な解釈を妄想してテンションあげまくる才能だけ無駄にあると定評のロマンチストそれがWATASHIDA

2019/10/02 12:36 | memory
自己考察
これも過去Twitterで書いてたやつのまとめです

考えていた事をまとめよう と思い メモを見返し 「これは何様でしょう」となっているから私は冷静
新しいパッケージにいれないと 中身を取り出して
パッケージの柄とリボンの色で、中身は寸分変わっていないはずなのに、違って見えるのさ。それが言葉 言葉ってパッケージ
孤独とは、なんなのだろうか

孤独とは その場で 同類を持たぬこと 繋がりを持っていない、ある状態を指す
と思っている よって友人を多く持つ人も同時に孤独になりうるし 孤独な人が最も内的に満たされている事がある。
孤独 という言葉は その言葉自体が何かを意味するに当たってあいまいだ
孤独は「疎外」「孤立」「隔離」これらの全てを内包するからである
また、孤独、という言葉は、曖昧ゆえに独自に定義が可能な、自由性の高い言葉とも思う。この言葉にもまた、ヲリーの定義があるように、無数の定義がある
またあいまいさゆえに、孤独、という言葉は、いくつかの別々に違った言葉の組み合わせの一部になることでその内に内包するいくつかの概念の内、より近い意味に沿う なので、よりシンプルで真理めいた結論を付ける時、さまざまな意味を内包し曖昧ともとれる「孤独」や「幸せ」なる言葉が適する時もある
哲学者、三木清は、「孤独は山にはなく、むしろ町にある」といった趣旨の事を言っている(らしい)
ここでの「孤独」は、「状態」ではなく「感情」としての孤独である。
「孤独感」といったものだ。しばしば人はこの「孤独感」と「孤独」を混合する。
「孤独」であれ、「孤独感」を持たぬ者は沢山いる。彼らは真の意味で孤独ではないのかもしれない。しかし、逆に位置して「孤独感」を持つものは、様々な人の波の一部であろうが、家族に真心を持たれ心からの無制限の愛を与えられようが、人に感謝をされようが 彼らは始終「孤独」に終わる
孤独感を伴わぬ孤独は、人を賢者にする。雑音や外的要素が遮断された時、人は「自己」が浮き彫りにされる。浮き彫りにされた自己は、雑音・外的要素なる"誤魔化し"の無い純粋なる核である
人は孤独を与えられた時、誤魔化しの利かぬその場で、「逃避」が不可能になる。狂いでもしない限り

話が逸れるけど、一切の「音」が存在しない部屋に人を閉じ込めると、人は狂うのだってね。あまりにも音がないせいで、自分の心臓の音や内臓の音がとてもクリアに聞こえるようになり、それがあまりにも生々しく気が狂いそうになるので、気を逸らす為に脳が幻聴を作り出すらしいよ
他人(ひと)は、自分の合わせ鏡だ
自分の中に無い物を、他人の中に見ることはない。不可能なのだ。
よって、自分をよく知る者は、他人をよく知る者にもなる。
逆もあるということだ。自分を知らぬ者は、他人を知る事が、できない。
最大の 、孤独、とは何か
自分の中に永続的に「孤独感」を、持ち続ける事では無いか。
他人と会い、話しても、「分かり合った」気に、ならない。相手からどんな話をされても「分からない」自分から何か話そうにも自分の事を知らぬから何を話せばいいか「分からない」
「共有」が成り立たない
他人を知りたければ自分を知ればいい。否、言い方をもっと適切にすれば、自分を知らなければ他人を知る事など不可能だ。人は、他人と交流する事により、自分の中のもう一人の自分と交流する。交流するということは、自分の中のもう一人の自分を発見することだ。周囲にいる人間が全員、「自分」なんだ

少し話が逸れた。
自分を知る為には、そうした他人との交流を通しての、自分の姿を合わせ鏡として他人の中に見る方法が一つ
もう一つがツールとしての「言葉」を駆使しての模索、観察、そして定義
かな と思っている
少し話が逸れた。
自分を知る為には、そうした他人との交流を通しての、自分の姿を合わせ鏡として他人の中に見る方法が一つ
もう一つがツールとしての「言葉」を駆使しての模索、観察、そして定義
かな と思っている
人にはいつだって「未知の物」が存在する。未知の物とは自分に驚脅となるか得となるか、わからないモノの事をいう。
人は、常に未知の物に囲まれてる故に、どうしてもそれらと対面して観察・調査・確認する過程を踏む事を強いられぬ限り、それらを避けて通るように「本能」にプログラムされている
それらに一々反応している様では生活が営めないからだ。そして、それら「未知」で「不明」な物は、驚脅か得かわからぬモノなのなら、避けて通るが吉なのだ。生物は、得る為のリスクが既に所持するモノの損失になる可能性があると、基本的に得ようとする事も避ける傾向にある
だから未知の物を避けて生活を営む事は、「悪」であるどころか「自然」な事なのだ。それが生活に干渉しない物で、自分の生に影響を与えない物であるのなら未知の物は基本的に避けるべきかもしれない(それらに無意識に我々が影響を及ぼしているのならきちんと認知するべきと思うがそれは私の信念の話)

しかし、一つ、我々がそうやって避けて通れない「未知の物」がある。
己自身である。
どんなに避け 逃げ 攻撃し 遠ざけようとしようとも、自己は絶対に己の前からいなくなることは無い
しかし、一つ、我々がそうやって避けて通れない「未知の物」がある。
己自身である。
どんなに避け 逃げ 攻撃し 遠ざけようとしようとも、自己は絶対に己の前からいなくなることは無い
未知の物への対処法は二つしかない(基本的に何事も選択肢は2つにいつだって絞られる法則に準じている)。
「避ける(逃げる)」または「知る」ことである。
未知の物への対処法は二つしかない(基本的に何事も選択肢は2つにいつだって絞られる法則に準じている)。
「避ける(逃げる)」または「知る」ことである。
知る、ということは、未知の物の正体を知る事である。
正体を知らなければ、対処する事は不可能だ。
対処するには、まず、知らなければならない(正体、そしてそれ自身を)。
教育者は、「知る」術を知らない子供に「知り方」を教える義務がある。「知り方」を教える者こそ、真の教育者だ。
知識を詰め込む事は「知る」事ではない。「理解」の伴わない「知」は二束三文の御託にしかならない。「理解」に辿りつく為の「知」のアプローチを教えるのが「知り方」を教える事だ
社会生活を営む為には、人と関わらなきゃならない。人と関わる為には人をある程度理解しないといけない。理解ありきの対処だから。
でも自分の事が理解できていない人は、他人も絶対に理解できない。だから関わり方がわからなくなる。そして「理解できない物」がやがて「恐怖」になり「驚脅」になる
未知の物とは対処法がわからない物の事だ。正体がわからない物。
正体がわからないと人はそれがどういう物であるかを「想像で補う」。
こうかもしれない、ああかもしれない、こういうものに違いない。想像だけは募るが一向に正体が見えない、むしろ見えにくくなる。もっと接し方がわからなくなる
接し方・対処法がわからないと、それが「驚脅」になる。それを避け、退ける為に逃げ、やみくもに攻撃するようになる。
これが「恐怖」のメカニズムだ。つまり 恐怖とは、「未知の物に抱く幻想」だ、それに他ならない
知り、理解し 正体を浮き彫りにし、対処・接し方を考えれば「恐怖」は消える

んでもずっと逃げ続ける人は、この恐怖がどんどん膨れ上がる。「ああかもしれない」「こうかもしれない」に「こうにちがいない」「ああにちがいない」が付け足されていくから想像…妄想がどんどん大きくなって、どんどん正体が見えなくなってく。そしてその妄想のせいで、対象がもっと恐ろしい物になる
結果、後で向き合わなければならなくなった時に更にデカいモンスターとなって帰ってくるか、ずっと逃げ続けるか、だ。そこで逃げ続ける人はやがて正当化し始める。あんまり耐えられないから、自我を守る為に幻想を作り出し始める。無音に耐え切れなくなると幻聴を作り出し始める脳みたいに
自己正当化の為に世界の認識を曲げるし、周囲の人間をそれに合わせようとする
責任転嫁したり悪口を言ったりする様になり
もっと自分のことわからなくなるから他人の事ももっとわからないし自分に嘘ついてるから他人にも嘘つく 自分を真っ直ぐありのまま見れないから他人も等身大で見られないな
だからなんか劣等感が強くて自己嫌悪ひどい人とかって敬遠しちゃうんだよな
それを「それでもいい」って結論付けてるか「どうにかしなければ」って問題意識あるんだったらいいんだが
「俺くずだから~鬱」て人は自己正当化の為に他人を使いそうで。自分の穴を他人に埋めてもらおうとするというか
自分から逃げながら、同時に欲張りながらも自分を正当化したいって思ってる他人にそうしてもらいたがるっていうかなー…うまくいえん
問題は自分でどうにかするか他人にどうにかしてもらうかしかないからね。でも自分と向き合うって事に限っては他人にやってもらえないんだから他人を使うのは逃げだ
他人を自己正当化の為に使うっていうのは、自己というアイデンティティを形成するために他人を使うって事だ
だから他人が自分の思い通りにならないと傷つく。アイデンティティが崩れるから。結果駄々をこねて他人をコントロールしようとするし無理だったらその人を自分の世界から排する。正当化する
それが一般的に言う境界性人格障害ってやつか。そうやって自分が理想的な自分で無いから自分のこと受け入れられなくて、その事実から目を逸らす為に、「理想的な自分」演出するために他人を小道具として使おうとする。理想的な自分から外れたり、外れた事されると動揺し傷つく。これは自己愛性人格障害
どれも自分の内面の考察・言語化が足りてないから起こるんだよなあ
分からないと想像で補うしか無いし、未知の物への対応がわからなくて「そういうものだ」って歪めて型にはめるのが唯一自分の知る対応法になり、もっと認識が実物より歪む事になる
自分のことを知るには言語化するしかない 自分というあいまいなもんを一番適切に正しく形容する言葉を探して、「こうかも」「ああかも」って模索する以外無い その為に本がある、自分が使う言葉を得る為に
本など、外部情報をどうやって処理するかを教えるのが親など教育者の役割と思っているが…
言葉というのはあいまいな物を物質化する為のツール、手段でしかない
言葉にすることで物質化する 物質化して初めてそれは対処可能対象になる、と 思う むしろ物質化させんと対処はできん 物質化させたらなんだって対処可能だ

何が言いたかったかというと……!!!だなア!!!
人はいつも選択しながら生きております。人生の岐路という大きな選択ばかりじゃあありません、コーヒーの飲み方や、むしろコーヒーを飲むか否か、というのも立派な選択です。
選択はいくつもあるように見えるものですが よくよく考え見つめなせば大体の事が二つの選択肢にまとめられるもんです。
コーヒー飲むか飲まないか。牛乳いれるかいれないか。仕事にいくかいかないか。つきつめた極端な選択肢は「生き続けるかここで死ぬか」になると思います
生産性の無い絶望的な人生観を持ってる人はだったら死ぬのでしょうか 死にたくないなら生き続けるんだと思うが、そういう人生観で現実的に対処法考えながら生きられるんかって言ったら多分無理だから、じゃあ他人にやってもらうしかなくなって、変に他人に依存しすぎながら生きる事になるわけで
他人に依存しすぎる人は他人を道具としてしか使えなくなる訳で
つまり過干渉になったり害になったりし始める。重くなる。他人にアイデンティティを形成するにあたって依存してるから相手の一挙動で一喜一憂する、過剰反応する 平穏は永遠に訪れん 心の中は常日頃地獄絵図のままになる
ここまで色々考えているっていうのはつまり私もそれができなかった人なんです
今も出来とらんかもしれません こうやって常日頃考えて言語化に励んでいるのは自分が一番わかっとらんからです。
わかってたなら言語化しようと頑張る必要は無いからな…わからないから言語化してわかろうとしている
気づかなければ、認知されてなければ、そこにあるものも無いのと同然です
もともと出来る人はそれが自然にずっとできるから認知しません。認知しないから考えることもありません。つまり言語化になかなか至りません。だから最初からなんでか絵上手い天才の話は観察・考察対象になれど参考にはならん
だからなんだか偉そうに知ったようにずらずら長く語っているけれど私がわかってるかっていったらわかってないんです、一番わかっとらんのです。わかっとらんから長々と垂れ流して考えながらうんうん唸っているという訳で……
だから私自身今の話しの中で例に出した人達とさして変わらないんである。
臆病だから知ろうとするのである 不快感を感じながら生き続けたり、人の挙動で一喜一憂するのが面倒だからそうなりたくないのである。一喜一憂され過剰反応されるのもとっても面倒臭いからそういう人を避けるのである 全ては自分が心地よく過ごす為でしかないな、うん自分勝手で自己満足な人間である
でも自分の事幸せに出来るの自分だけだしなんかみんなそんな感じでいいのとちゃうのかなって思ってるんだが 勿論私に合う生き方が皆に合うものとは思わないから人それぞれでいいんだけども
皆各々で自分の信念や価値感に従い自分也に気持ちよく幸せに生きればイイのとちゃうのんかなア
自分一人で快適で満足だが、他人と共有できたりいろいろやったら、もともと満足なのにプラスアルファになってもっと楽しいな!ってなる位が丁度よい対人関係の捉え方でねえかな…とか
あの人にこうされないと幸せじゃないってすると他人コントロールしなきゃになって大方できないから不幸なままで
そんで自分楽しくない!!みんな楽しくない!!誰も得しない!!!オーマイ!!!だから取りあえずみんな自分がまず楽しくなろうぜ!!そんでみんなで楽しいの共有してもっと楽しくなっちゃおうぜ!!!!と一人遊び好きが申しております アッハイ

2019/10/02 12:23 | memory
異文化理解
かつてTwitterでつらつら書いていたものです
雑文および修飾のおかしい箇所はご愛嬌

イギリスはこうだよ、っていっても結構日本の人って「イギリスの人がいってる整合性のあるイギリス情報よー!きゃー萌えましょうみんな!」って感じで、自分の自然な生活がひっぺがされて消費されて、それが対等に扱われない感じがよくあってとても苦手なので、あまりこちらの話はできません
自分の国の文化に興味を持たれる、という事を好きな人が過半数じゃないかな、と思っている それを「私も国や文化を持っている、相手のその部分の違いが気になる」というのと「異文化?なんか萌えられるとこあるかな」と思いながら話を聞く これには根本的な違いがあると思うけどどうでしょう?

すこし独り言をさせて頂くので長くなりますし、これは自分語りの域で、私はイギリス人の代表として話すなんて事をするつもりはありませんし、これはイギリスで長年生活して、その立場から日本の方々と交流している上で個人的に感じる事を言う自分語りに過ぎませんので、皆がこうではない事を明言します
あくまで私「ヲリー」の個人的な見方の一人語りになりますが突っ込みや質問は大歓迎です、私も私の見方しかわからない人間の一人にすぎませんし、そういう外からのインプットは助かります むしろ助かります ありがとうございます

私は小学校卒業まで日本で生まれ育ちましたが、人間「人との関わり方」や「自分の立ち位置」なんて社会的な事を自覚して考えて行動しはじめ、学習をしはじめるのはせいぜい中学に入ってからではないかな?と思います それは私がそうだったからですが、ここは話にそこまで重要じゃないので省きます
私が自覚的に人と関わるようになりはじめ、人との関わり方を学び始めた時私は偶然イギリスに引っ越していて、日本人の一人もいない寮にいました。その経緯から、私の人との関わり方や社会への関わり方はとてもイギリス的だと思ってるし、その事実はここ最近(2年程)インターネットを介して日本人の方々と(字でツイッターなどというSNS媒体を通してのみですが)交流していく中で、初めて自覚的になりはじめた事でもあるし、私の中身が全く日本人ではなくイギリス人である、と知る事は相当なショックでもありました。
人間は、自分の文化や常識というものがどういうものであるか、その中にどっぷりと浸かってる間はわからないものだと思います 人間の肌の神経は、自分の体温と全く同じものを触ると冷たいとも暖かいとも感じない、という話を聞きかじりましたが、それと似てると思います

話は少し逸れますが、去年の今頃、イギリス発のエンターテイメントショーが日本で催されるという事で、私が雑用兼通訳というなんだかよくわからないポジションのバイトを受けて、イギリスからのチームメンバーに金魚の糞して日本全国を1週間毎に回る、という経験をさせて頂きました。
円滑に作業を進めたり、円滑にコミュニケートするには「行間を読む」というのが必要不可欠ですが、もう文化が違うから相手の、たとえば、「ちょっと言いにくいよね」と濁す言葉の真意さえもこちらが取り違えてる可能性の方が大きい
私のイギリス人の上司がふと何かを言えば日本人のスタッフは「そんな言い方しなくても・・・」「みんな傷ついちゃうよ」「それは立場的に言えないよ ってヲリーちゃんうまく今俺の言った事言わないでいい感じに説得して」などなどの言葉がでてくるでてくる
イギリス人的にはその「言いにくい」の真意を読もうとすると、「立場的に責任を負わされても責任を取れないから言えない、お前が俺の代わりに言えや」だと思うので、「じゃあこっちが言えばいいね?」と返す事になるとします しかし、これが日本人の方からすると実は「そういう事を言うと空気が悪くなるしそうすると俺の立場も無いから、そういう一切の事は言わないでくれ」だったりするんですよね、だから「じゃあこっちが言う」といってもうスタスタ歩き去るなんて事すれば日本人の方は「なんで!!???」ってなりますよね。
これだけならギリギリ「弱っちゃうぜ」なんて笑い話にできるのですが、交渉の場でも連絡の場でもオフの場でも 全てに関してこれだと、重ねればどうしてもお互いの信頼関係にヒビが入っちゃうんですよね。そしてそれが不満・苦情・喧嘩になって出る
(あと、腹いせかのようにきちんと作業をしてくれなくなる、などの嫌がらせが一番多かった)
空気を読む、察する、行間を読む これらのスキルは日本文化を表現する上でよく使われるものですが、それはイギリスでも実は全く同じ事を重視している しかしどんなに両者が気遣ってもやり方が違えばもう通じないしこっちも相手の気遣いに気づかない
気遣い、というのは相手とやり方があって初めて価値をなすものです 「私は気づかいをしたから無罪放免」という事はありません 通じなければ無いも同じなのです
でも日本の方の「本音と建前」の使い分け方にはとても困ってました…「俺に任せとけよ、全部やるよ、大丈夫」と言いながら、本当に全部任せると「そこまでとは言ってない、考えればわかるだろう、善意を使い倒す気か」と憤慨される ってことしょっちゅうでした それを受けてイギリス人側もびっくりして「全部やるっていったじゃねーか!?嘘かよ!そっちは『~~』って確かに言った、言質とった、だからそれを信じた俺に責任はないはずだ!」と返せば「責任だ言質だなんだこのやろう、こっちは情と善意でやったのにつめてえ野郎だ!」「冷たいですって!?失礼極まる!公私分けろ!」「ああ!?」

すれ違いは明白なのですができるだけ私なりに解説を試みます。
①日本人「俺に任せとけよ、全部やるよ、大丈夫」
【日本人サイド】あったかめの事言って相手を安心させてやらないとなー、俺も俺の仕事をきちんとやるよって事をアピールしとこう それに、ちょっとくらいなら余分な仕事もしてあげてもいいかな。助け合いだよな。
①日本人「俺に任せとけよ、全部やるよ、大丈夫」
【イギリス人サイド】おや?自分の範囲の仕事をするのは当然だからわざわざこれを言うってことは自分の範囲外の事までするよって意味?じゃないと言った意味ないよな?本当に大丈夫かわからないけど大人がこう言い切るから敬意を表して黙って任せねば
⇒【結果】
日本人のスタッフが、最初から自分の範囲と決められてたところはきちんと済ませているが、イギリス人の方が「やる」と思っていた範囲はちょっとしかやっておらず、ほとんど済んでいない。しかしイギリス人も不安ながらも黙ってずっと様子を見つつ任せてたので、その挙句済んでなくてキレる
これを見て、「不安なら聞けばいいじゃねえか!言えばいいじゃねえか!」と思う方もいらっしゃると思いますが、具体的にそれがどういう形になるかというと
イギリス人「(仕事が進んでないようにみえるけど本当に一人で)大丈夫?」日本人「(ん?なんかわからんけど気遣いなら)大丈夫やで!」です。
イギリス人は基本的にその「仕事すすんでなくね?」の部分がいえません。なぜなら、『心配している』と相手に言うことは、「自己管理ができていないのでは」「仕事をやるっていったのにやれてないのでは」と指摘して、「社会的能力のない子供のような人物である」と相手言う事に同義だと思うからです。
なので一旦相手が一言でも「やる」と言ったことは、「やり方の部分は貴方の中の話だから、貴方が『やる』といった言葉を信頼して任せる。敬意を表する為に俺は何もいわず、ただ黙って待っていよう」になる 何かあったとしても、相手が言動に行動で始末つけて責任を取ることを期待して……。
しかしもう最初の話の部分で行き違いがある 意味するところが違ったんですよね。日本人の方は「全部任せろ」と発言するのは、「ちゃんと『最初から言われた部分の仕事を』きちんと全部するからそこは任せといて」という、「気遣い」のつもりで言っただけなんですよね。そこに「ついでに余計な仕事やったげてもまあいっかな♪」というサービス精神のようなものが別個でついてきているだけ。自分の仕事の範囲外もやろうとするのは日本人によくある性質ですが、イギリスでは自分の仕事の範囲外の事をする=必要のない事をしている=追加の給料とかも払えないしあとで問題になったら面倒だからやめてになるわけなんですよ!「余計な仕事をする」というのは困るんですよ!自分の範囲だけの仕事をやっていてほしいんですよ! しかしショーイベントというてんやわんやな現場でしたので、この範囲ってやつがそこまで明確ではなかったし、人手が足りなかったのも事実で……監視することも不可能に近く……

そこでその現状を受けて愕然としつつ「やっぱり無理じゃねーかよ!それ見たことか!」と思うイギリス人側の文句 それが「全部やるっていったじゃねーか!?嘘かよ!そっちは『~~』って確かに言った、言質とった、だからそれを信じた俺に責任はないはずだ!」になります。シーン2開始です。
②イギリス人「全部やるっていったじゃねーか!?嘘かよ!そっちは『~~』って確かに言った、言質とった、だからそれを信じた俺に責任はないはずだ!」
【イギリス人側】全部やる、と大の大人がわかりやすく宣言するもんだから失礼な事聞けなくて黙ってたら、この無責任!後始末どうする予定なの!
②イギリス人「全部やるっていったじゃねーか!?(略)」
【日本人側】俺のやるとこはやったろ!?そりゃちょっとは善意で余計な仕事もやったげてもいいと思ってやったのに、そしたら物の例えの「全部やる」の部分持ってきて言質とか性格悪ッ、人の善意を餌に取るだけ取ろうとして!!何この人!!!

③日本人「責任だ言質だなんだこのやろう、こっちは情と善意でやったのにつめてえ野郎だ!」
【日本人側】上記
【イギリス人側】やるっていったことをやってなくて困るから責任どう取るって話なのになんか相手の情とか善意とかいきなり感情の話はじめてきたよ!?何その言い訳、ガキかよ?逃げんな!
ここをもう少し解説すると、なんで「ガキかよ!逃げんな!」になったかというと、イギリス人側にとって本当に相手が『感情の話を出してきた』というのは突拍子もない行動だったのです。なんでその話でてくんの?と。なので、「関係無い話して言い逃れようとしてやがるにちがいない!」となった訳です…
イギリス人の公私の分け方は、「感情」と「論理」を分ける、みたいな感じがつよい。仕事中に「悲しかった」「つらい」なんて個人的感情を持ち出して同情を訴える(ようにみえる)事をするのは、まだ公私を分けられない子供のする事 という見方
そして「大人として関わるんだからそういう子供っぽい話には付き合いません」という対処の仕方になって、たとえば日本人が「善意なのに情なのに」と感情の話をすると「関係無いから話しません」と全拒否し、ひどければ会話拒否の流れになるんですね、(なんとなくわかるでしょうが、こういう思考回路があるという事がわからない日本の方からしてみると、「こっちは大事な話をしてるのに拒否するなんて失礼極まりない」と傷つき怒る展開になる負の連鎖が起こります)
③イギリス人「冷たいですって!?失礼極まる!公私分けろ!」
【イギリス人側】感情の話とかこちらにはどうでもいいはずの話をされた挙句感情論からの主観でレッテル貼って僕を侮辱するなんて行動も起こした!どこまで失礼!でもそこまで説明する義理はない(相手大人だし)、公私分けてとだけ言おう
③イギリス人「冷たいですって!?失礼極まる!公私分けろ!」
【日本人側】公私わけろだと・・・?こっちは相手が助かるとおもって真心をこめて俺がやらなくてもいいことを相手の為にやったのに、それを「公私分けろ」って全部俺のせいにするたあなんてやつだ、それならもう情もかけない何もしない。
日本だと、「具体的に何を言ったか」より「それを言ったってことはこういうことを考えているんだ、こういう事を思っているんだ」と、言葉自体よりその裏の意味で相手を責めたり叩いたりする事が多いですね イギリスは逆です
むしろ「言葉なんてどうだっていいじゃないか」というような・・・ 「気持ちがこもってたらいいんだ、あとがよければいいんだ」とでもいうんでしょうか?喧嘩して仲直りしても、個別で「あの言葉遣いはよくなかった」と借金を清算するように謝る、という行為をあまりしないような気がします。(日本)
イギリス人は基本的に「内部の事、裏のことはあっちの話だから触れない」を通すと思います。突っ込みたくても、裏の事なんてわかりようがないから自分には突っ込めない、って感じかな…だから「行動」「言動」という具体的な物のみを取り上げると思います。それが日本人には「揚げ足取り」に感じられる
揚げ足取り=突っ込まなくてもいい無意味な部分をわざわざ取り上げて、こっちが具体的な事実には何も言い返せない事をいいことにこちらを責めようとする悪意の所業 ですからきもちがいいわけがないですよね……そうじゃないんですけど。
こちら的には、「感情=主観」だから、感情論っていうのは絶対的に否定できない伝家の宝刀。「つらい」と言ってる人に「お前はつらくない」なんて返すのは成立しないように、感情論は感情論というだけで正義 「だがこう見えた、思った」も主観だからそれだけで正義になる そしてそれは卑怯に見える。
こちらはそちらが突っ込む事ができる「具体的事実」だけを持ち出して対等性を維持しようとしてんのに感情論とか持ち込んじゃうん?あっちから対等に話すことを放棄してるよ……てなる(人によっては「感情論いったなはいルール違反~~俺もやっちゃいけない事やる~でもお前が先にやった~」になる)

文化を隔てればもう「気遣い」や「優しさ」「善悪」の基準まで真反対に違う。
問題はそれが「自分の思ってる基準の中ではそう」と客観視できる人のものすごい少ない事なんだよなあ。自分の基準で今までやってこれたから、それが自分の基準だけでなく「みんなの基準、常識、正義」って思ってしまってる
異文化の人との交流には「私の文化・関わってきた社会ではこういう事になっているが、そちらでは違うのではないか?そのせいで勘違いされているのではないか?私たちも勘違いしているのではないか?」という意識とそれを何度も確認しあう姿勢が必要不可欠だと思う。察せない事は言わなければ誤解のまま
これって、違う国とか違う文化とかマクロな話だけじゃなくて、たとえば「他校ではこう」「隣の県ではこう」「隣のクラスではこう」から「うちらの友達んなかだとこう」とかミクロな中でも『価値観と文化の違い』が出てくるのですがそれが「同じ国に住み、同じ言語をしゃべっているから」 それだけの理由で「価値観も感じ方も文化も一緒に違いない」というとんでもない前提を生んで、分かり合えない人の事を「基地外」だとか「バカ」だとか決めつけ輪から除外する動きが生まれてしまうんだと思うんですね……
「気遣いのできないひどいひと」のレッテルの方が盛んですけど、それもまた『自分の基準から』であって、その基準に従って物をして行動する、その中に相手の拒絶が入る って事はあると思います。しかしそれを「みんなの基準」としてしまうと範囲が広がり、個人の話ではなくなる それがいじめにもなる

「つらい、ひどいと感じた」という主観的感情論が正義とされて持てはやされ掲げられる日本の文化は私には恐ろしいのですが それももうそこにあるものですし、その考え方を持つ人にどうコミュニケートして、どうこちらの意思や目的を共有するか、というのが「文化の理解」と思っているんです。

他人の事なんてわかりません。無理無理。自分じゃありませんし。自分の見てきた世界をそのまま見てきた人はいない。それは自分にしかわからない。他人の見てるものをそのまま見て、そのまま同じように感じる事を「理解」と思ってる人も多いですが、正直なところ、「他人はこういう違う思考回路をもっているらしい。相手と気持ちよくなるべく多く得があり損の少ない関係を作りたいから、最低限ラインの確認を相互的にしあって、ほうっておける箇所を明確にしておこう」 っていうのが「理解」だと思ってるんで うまく言えないのですがね。
私はそのやり方でいいと思う!「なんか違うんだー」っていって、そこからもっと興味もったりしてくれたらそりゃ嬉しいけど、興味ないならないでそのままほっといてくれたら「存在を一応許されてる」って思うというか 拒否されてない、ってわかった時の安心感はものすごいんだよな、私はですけど

「わかんないならほっとけばいいだろ」が本音 一々「興味のない自分」を正当化するために「イギリスとか●●だから嫌い」とか「皮肉とかきらいだし多分イギリス嫌い」とか言われると傷つくからね
「興味持って」っていってるんじゃないんですね。「理解して」っていってるんじゃないんですね。「ほっといてくれ」と言ってるわけです。それが異文化理解。私にとっての異文化理解。お互いほっとく為に、お互いの範囲を明示して「踏み込んではいけない所」を伝え合う、それがコミュニケーション
何かと話をすると「イギリス人かわいそうだよね!あなたは悪くない!」と踏み込んできて頼んでもいないのにそういう余計なお世話いってくるのはべたべたしていやですね 距離が近く優しいって事だけが正義ではないと思う
でも「異文化を理解しないと外人が悲しむ、あの人達は傷ついてるんだぞ、ちゃんとできなきゃお前は悪人(=社会から排除されるべきもの)」なんて言われたら関わる時に億劫にもなるし距離最初から置きたくもなるし、萌え化や人物の性格のキャラ要素化しなければ安心して話すこともできなくなりますよね

「こういうことは失礼らしいから日本人はだめだ」の脅しのおかげでどれだけの差別が助長されたかしれません 異文化交流の第一歩にまず「対等に接し合う」が必要なのに、他人を聖域化して腫れ物のようにすることが「大事にすること」だと思いこんで、正しい人種になろうとする それは理解から一番遠い
『「私も国や文化を持っている、相手のその部分の違いが気になる」というのと「異文化?なんか萌えられるとこあるかな」と思いながら話を聞く これには根本的な違いがあると思うけどどうでしょう?』最初のこ
前者は自分と相手を同じ土俵に置いて対等に接していると私は感じます。自分の興味や得の為にもっと情報を出してほしい、という気持ちがあっても、「その情報をだしているのは独りの人間である」という敬意を持ってそう接していると感じる
後者は「自分が興味あるかないか」 「自分の得」それだけを見ている だから相手に話を聞きたくても「私の好きな情報を出して!」の要求だけをしてるように感じられる 相手は人間なんだから、話を聞きたいなら相手を対等な人間として扱う敬意を持ってほしいんだよな でないと使われてる気になる

「私は」、ですが、敬意を表すやりかたが私にとって間違ってても良い 相手が敬意を表そうとしている、という一端が見えればね そういう情報をいろんなひとにぽんぽん言いたい気持ちのある人は不快に感じないかもしれないけど、話をするっていうのは時間がいるし、そんな慈善事業をする気はないです。
私はとりあえず「敬意を持とうとしてる気持ち」というものくらいはギブアンドテイクの対価に求めている方です 損は好きではないですし会話も対人も何もかもギブアンドテイクがあるものではないのかと

異文化を「理解」し敬意を払う…それは、相手の得とこちらの得を両立させ、双方に利益を生み出す そんなどんな人間関係でも当然である「ギブアンドテイク」を、お互いきちんとしようとする事 そういう事ではないんでしょうかね

2019/10/01 09:04 | cross-cultural

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